October 2012

October 18, 2012

ウッドストック Woodstock

50年代、テレビ放送が始まる前、ハリウッドは黄金時代、多くの映画音楽が作られ、そのために多くのミュージシャンが彼の地に集まりました。ニューヨークのそれとは異なり、楽譜を読み、演奏力と作編曲能力のある、教育を受けた白人ミュージシャン達でした。ウエストコース・トジャズと呼ばれ、ジャズ全盛を迎えます。裏返せば、それは朝鮮戦争の時代、その特需で西海岸は大いに潤っていました。hippie_van

60年代はロック・ミュージック全盛の時代、1969年8月に開かれた野外コンサート:ウッドストック・フェスティバル(Woodstock Music and Art Festival)は、「正義なき」ベトナム戦争への反対運動にHaight_Ashbury St Sign_2端を発し、公民権運動、ウーマンリブ、自然回帰運動に連なる、ヒッピー対抗文化の一大イコンでした。

『ウッドストック Woodstock』
ジョニー・ミッチェル(Joni Mitchell )の作ですが、ここでは私の好きなイアン・マシューズ(Ian Mathews & Southern Comfort)が歌います。

道ばたを歩いている神の子に出くわしたの
どこに行くの?と、訪ねると…
彼から返って来た言葉はこれ… 
ヤスガーの農場に行って
ロックンロール・バンドに加わり
そこでキャンプして、魂を解き放つの

私達は星くず、光り輝く黄金 
田園に帰って自分を取り戻そう

じゃ、あなたと一緒に行っていい?
私はスモッグから逃げ出してきたの
ぐるぐる回る何かの歯車の一枚の歯だったような気がするの
たぶん、今がそんな気になる時期ね
たぶん、人類にとってもそんな時期ね
自分が誰か判らない
でも、人生は学ぶためにあるのよ

私達は星くず、光り輝く黄金
田園に帰って自分を取り戻そう

ウッドストックに着くまでには
50万もの勢力になっていた
あらゆるところに歌が溢れ、祝宴があった
夢に見たのよ
この国の空を飛ぶショットガンに跨った爆撃機が
蝶に変わるのを

私達は星くず、光り輝く黄金  
田園に帰って自分を取り戻そう

1975年、サイゴン陥落をもってベトナム戦争は集結、このような対抗文化幻想の終焉と崩壊をテーマにした「ホテル・カリフォルニア Hotel California」がヒットするのは1976年でした。曰く…「We haven't had that spirit here since 1969…(そのような酒はこちらにはご用意しておりません、1969年以来…)」、そうです、1969年とはウッドストックの年でした。

※ Buy at Amazon: ウッドストック  ホテル・カリフォルニア 

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express01 at 13:55|PermalinkComments(0)TrackBack(0) このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote Music 

October 11, 2012

散歩の途中<1>

ステージに上がった30分の持ち時間に備えて、少なくとも<イントロ >→< 間奏 >→< エンディング>の部分がピシッと決まった持ち歌を10曲確保することを目標に練習しています。…と、準備だけは進めているのですが、残念ながら今のところ、そのステージの話はありません。その進捗状況は、左コラムのミュージック・プレーヤーでお聴きください。新曲がないので、当面は音楽に関する記事も期待できないかも知れません。

10月5日、ビートルズが最初の大ヒット:『ラブ・ミ・ドゥ Love Me Do』の50周年記念行事がニュースで流れていました。これに便乗して音楽関係のブログを書こうか…とも思ったのですが、当時からこの曲があまり好きではなく、曲は知っているが何の思い出もなく、書かず終いになってしまいました。

音楽関係の記事は横へ置いて、その他の話題に…、また歴史の話か、と言われそうですが、今回は、この夏から始めたスケッチ、最近、「散歩の途中」で描いた絵をご覧にいれましょう。

2012.09.18 東京都町田市と神奈川県相模原市の境を流れる境川、この橋を渡ると相模原市です。この境川を下ると、大和・藤沢と通って江ノ島に至ります。この辺りは古くから集落があったようで、この大きな木立も古い集落でしょう。→『俺は相模の『原』だ!』『縁切り榎とわかれ橋』『バイクは好きですが、タイツ姿がどうも…』
散歩の途中_120918

2012.09.26 小山田の谷戸田、稲の刈りが終わりました。東京都がその景観を保存している里山。見方を替えれば…、近代の発展から取り残されたような、懐かしい風景です。近くには、小山田有重の居城跡:大泉寺、鶴見川の源流、東京都が管理する小山田緑地、幕末、近藤勇も訪れた小野路がつながっています。→ 『小山田の谷戸田(やとだ)』『忠生( ただお)、極めてローカルな話ですが…』『あ〜あ〜、川の流れのように…』
小山田稲刈り_120926


2012.10.02 小山田有重の妻を祀った(?)、小山田神社の石塔。回りは蓮田、8月には一面に開花が見られます。
小山田神社_20121002

2012.10.08 小山田桜台、尾根道近くの公園。
散歩の途中_121008

私が始めてビートルズのレコードを買ったのは、次のヒット:『プリーズ・プリーズ・ミー Please Please Me』、東芝= Odeon、340円(?)でした。あれから50年、ビートルズを生んだイギリスはますます普通の国になりました。翻って日本、坂の上の雲に届いたのはほんの一瞬、その後は下り続けて30年、日本は世界に何を遺産として残したのでしょうか。「かわいい」漫画文化だけ…? 少し憂鬱になっていたところに、飛び込んできたのが山中教授のノーベル医学生理学賞受賞のニュース。ちょっと、元気になりました。

eyecatch_amazon_2文房具:スケッチブック 本:スケッチの描き方 

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express01 at 22:19|PermalinkComments(2)TrackBack(0) このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote Local | Drawing

October 02, 2012

高山彦九郎、生国は上野新田郡

娘家族が渋川市に住むようになったのがその理由…、ではないでしょうが…、群馬県が妙に身近に感じるようになりました。

律令制以前、中部より以東の関東地方には蝦夷が住んでおり、その地の開拓・屯田を目的に渡来人を置いたが、その一派:毛野氏(ケヌウジ)が毛野国(ケノクニ 群馬県+栃木県)、の豪族でした。110年、ヤマトタケル軍は『足柄峠』を越えて東国に入り、関東地方の外縁部を反時計回りに平定しました。この地で、東国を望みながら、亡き妻を追慕して「ああ、吾妻はや(わが妻よ…)、恋しい」と嘆いたことから東国を「あづま」と呼ぶようになります。律令制下では、都により近い上毛野国(カミツケヌ)と遠い下毛野国(シモツケヌ)の二国に分かれた。「毛」は二毛作の毛、昔この地域が穀物の産地であったことを示すもので、「下毛」から下品な想像をしてはいけません…、後に「上野国(コウズケ 群馬県)」と「下野国(シモツケ 栃木県)」となる。「毛」の字はなくなるも、その音、「ケ」は残ったことになり、合わせて両毛(リョウモウ)と呼ぶそうです。
木枯らし紋次郎_3

時代はぐっと下って江戸時代、上州といえば、佐位郡国定村の忠治と小説:「木枯し紋次郎」を知っているぐらい、彼等の百年前、紋次郎とほとんど同じ場所:新田郡(にったごおり)の豪農の次男に高山彦九郎(1747〜1793)は生まれました。林子平、蒲生君平と並んで、「寛政の三奇人」の一人です。奇人の「奇」とは「傑出した」、「優れた」という意味であり、「奇妙な、変人奇人」の意味ではありません。

その先祖は、新田義貞の配下として活躍した十六人(「新田十六騎」)の一人:高山重栄と言われ、幼少より勤皇の志を持ち、18歳のときに学者を志して京へ遊学、全国各地を遊歴して勤皇論を説く。かといって、生業も持たず、家業も手伝わずでは、家中、地元では評判の悪い放蕩息子でした。遺された彼の日記は、その健脚ぶりだけではなく、社会・政治状況の重要な資料であり、多くの学者、画人、商人、刀工など、あらゆる階層に属する各地の知人・友人との交流の記録は驚嘆に値します。

天明の大飢饉「天明の大飢饉(1782-1788)」が発生、特に奥州(東北地方)は惨憺たるもので、弘前藩では逃散した者も含めると藩の人口は半減、津軽・南部両藩では、死者が十数万人に達したと伝えられている。浅間山が噴火(1784)、京では大火(1788)が発生、社会不安が増大した。目を外に転ずると、ロシアが南下、千島・蝦夷をうかがう動きを示すようになり幕府・知識階級は大いに危惧を抱くようになりました。奥州白河藩主:松平定信はこの大飢饉の中、倹約に努め、領民に対する食料救済措置を迅速に行ない、藩内では餓死者は出なかったと言われている。その手腕を認められた定信は老中首座となり、幕閣から旧田沼系を一掃して、「寛政の改革」を進めたのはよく知られるところです。山口鉄五郎ほか「蝦夷図」

内憂外患の情勢を自分の目で確かめたい…と、彦九朗は蝦夷地に向かいます。1790年(?)6月5日江戸を出立、下総、常陸を経て奥州街道を北上、三厩(みんまや)を経て、渡海すべく、9月3日に元宇鉄(もとうてつ)に至りますが、蝦夷地でのアイヌ蜂起事件の余波で叶わず、渡海を断念します。やむなく来た道を戻ることになり、仙台に林子平を訪ねたのは10月24日でした。蝦夷地を見ることは出来なかったものの、4ヶ月半にも及ぶ往復の道中で見聞した「天明の大飢饉」の惨状、知人・友人との交歓・酒宴、その紹介で次の宿泊場所を確保、旅費が乏しくなると彼等から借金…、これらが事細かく日記に記録されています。 ※その道程:続きを参照。

彦九朗が、奥州の飢饉が天災ではなく武家の無能・無為無策が原因の人災である、という結論にいたり、以降、幕府への憎悪をたぎらせたのは、武家による武断政治を廃し、天皇を頂点とする文治政治を理想とする彼の自然ななりゆきでした。武断政治への批判勢力を結集を目的に京都に向かうことになります。

彦九朗を追いかけて、蒲生君平は、故郷の下野国宇都宮を発して奥州路を北上、津軽藩領の三厩に至った。渡海できず引き返したという話を聞いた君平は奥州路を戻ったが彦九朗に会うことができず、塩釜に親交のあった知人を訪ねると、彦九朗は仙台に滞在していると言う。林子平の居候先に訪ねるも、林子平は不在、彦九朗は3日前にすでに京都に発ったという。「寛政の三奇人」は、わずか3日の差で、遭うことが出来ませんでした。

高山彦九郎像
学生時代、教科書にあったと記憶するだけで、それ以上の知識はありませんでしたが、京阪三条駅、三条大橋の東、皇居に向かって伏している高山彦九郎の像はよく覚えています。わずか3日の差で残念でしたが、その像、今では「土下座前」と呼ばれ、絶好の待ち合わせの場所になっているそうです。

※ Amazon: 「彦九郎山河」 「街道をゆく 3」
 
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express01 at 17:47|PermalinkComments(0)TrackBack(0) このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote History_Japan 
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映画・音楽・歴史、そして、自己流ながら、水彩画を描いています。思いついたことを、気の向いたままに、イサオなりに、深く掘り下げていきます。 ※お気づきの点、改善すべき点をどうぞお聞かせ下さい。

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