July 01, 2012

July 01, 2012

東方に向かう三道、その分岐点

「白村江の戦い(663)」で唐・新羅連合軍に敗れ、半島での足場を失い、百済からの難民を受け入れ、 唐・新羅の侵攻を恐れ、断固たる決意で律令国家を目指し、唐(中国)との冊封関係を断ち切った倭の国。ここに、天皇制国家:日本が誕生しました。近江へ遷都(667)、わずか5年しか続きませんでしたが、大和朝廷の軸足が東へ移動したことになります。

因みに、地名の「近江=現在の滋賀県」と「遠江=静岡県浜名湖」は対。前者は元々「近(ちかつ)+淡海(おうみ)」、後者は「遠(とおつ)+淡海(おうみ)」。前者は文字:「近」が残ってその音:「チカ」が抜け『近江、おうみ』となり、後者は文字:「淡」が抜けその音:「おう」が残って『遠江、とおとうみ』となった由。

元へ…。 
大陸、沿海州に渤海国が出現(698 -926)、唐・新羅の圧迫に対抗するために、従来外交の玄関口である太宰府より、むしろ、日本海を横断、敦賀・越前・佐渡を玄関口に渤海使を派遣して来るようになった。当初の軍事同盟の性格は希薄となり、次第に文化・商業的な性格に変わり、その交易関係は渤海国滅亡(926)まで続きます。

秦(はた)氏・漢(あや)氏など優秀な技術者集団が渡来し、錦を織る錦織部(にしごりべ)は15世紀、京都の西陣織として開花、機織り技術は後世の加賀友禅、近代の福井・近江の人絹・繊維業、さらに南下して和泉国の綿織物に繋がる、一大繊維産業地帯、その織物を商う近江商人を生み、明治近代日本を担う多くの人材を輩出します。

律令制・中央集権国家体制では、辺境に向かって速やかに制圧集団を送り、逆に地方の物資・労役を中央に貢がせることを目的に「道」が整備されました。平安中期(810年頃)、天皇が凱旋行進を閲兵したであろう、京の朱雀大路は筑前国太宰府を終点とする山陽道に通じ、これこそが大路=最重要道路でした。京以西、西日本が大和朝廷の統治下にあり、当時は如何に大陸・半島を重視していたかということですが、その視線は次第に蝦夷の勢力圏である東方に移っていきます

京都の鬼門:艮(うしとら:北東)に位置する比叡山は王城鎮護の山とされ、延暦寺を据えます。坂本からの参道を除いては、山科の地(山城国)より逢坂(おうさか)峠を越えるのが唯一の東方:近江国へ入る道でした。

更級日記「これやこの 行くも帰るも 別れては 知るも知らぬも 〜」、その「逢坂の関」を越えるとそこは蝦夷の住む「化外(けがい)の地」、近江国府=瀬田(現在の大津)は要衝、東方に拡がる三道のターミナル、分岐点でした。

東山道: 近江「不破の関」を越えて美濃〜信濃「碓氷峠」〜上野〜下野〜陸奥「白河の関」を経て多賀城に至る
東海道: 伊勢「鈴鹿の関」を越えて尾張〜参河〜遠江〜駿河「足柄山」を経て相模〜武蔵〜下総〜常陸〜陸奥に至る
近江街道北陸道: 「愛発の関(あらちのせき)」を越えて越前〜加賀〜越中〜越後に至る

もし…、近江京が5年ではなく、さらに続いていたとするなら、その視線が陸伝いの東方に注がれただけではなく、日本海をまたいで、例えば、筑前太宰府のように、敦賀を新しい玄関口とするモノと人間が往来する日本海貿易圏のようなものが出来たかも知れません。北陸道の重要度は大きく高まり、越後以北、出羽〜秋田、そして陸奥のその後も大きく変わったはずです。 
 
摂津国福原に大輪田泊を修築(1162)、音戸ノ瀬戸の開削(1167)など大型土木工事が好きだった、あの『平清盛』、敦賀湾〜琵琶湖〜揖斐川〜伊勢湾に至る大運河構想を持っていたそうです。ほんまかいな…。

秋、歴史にうるさい彼と、近江『湖東の旅』を計画しています。ついて行けるように、勉強しておかなければなりません。

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ISAO

映画・音楽・歴史、そして、自己流ながら、水彩画を描いています。思いついたことを、気の向いたままに、イサオなりに、深く掘り下げていきます。 ※お気づきの点、改善すべき点をどうぞお聞かせ下さい。

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