September 25, 2011

September 25, 2011

俺は相模の『原』だ!

よく利用する洗車場、そこのご主人は代々農家を営んで来た、この辺で言う「在の人」。このご主人との話がなかなか面白いのです。相模原市、その市名に話が及びました。織田信長に滅ぼされた甲斐武田家の遺臣がこの地に移住、「俺は相模の!」と名乗ったことに始まると言います。

武田信玄の子:勝頼が織田信長によって滅亡(「天目山の戦い(1582)」)。甲斐の国を統治する家康は、密かに武田家の遺臣を保護、後に原 胤従(たねより)ら10名の武将を家臣:「甲州衆」として召抱えます。「三方ヶ原の戦い(1572)」で惨敗を喫し、自らの滅亡さえも覚悟した家康は、後々まで「生涯の中で最も不覚な戦い」と語るほどに、武田家臣団の強さを知っていたからでした。

織田信長に代わって豊臣秀吉が天下統一を果たすと家康は秀吉の命により関東地方へ領地替えとなり、胤従(たねより)ら甲州衆もそれに伴って武蔵国の八王子に移り、「八王子衆」と呼ばれるようになったのでした。「関ヶ原の戦い1600)」に勝利、覇権を確立した家康は江戸に幕府を開き(1603)、甲州口警備強化と治安維持を目的に、正式な幕府組織:「八王子千人同心」を作ります。八王子だけではなく、その痕跡は下の橋本や淵野辺にも見られます。

八王子千人同心武州多摩は、西国の敵が江戸へ侵入の道筋にありその防御地として機能、「八王子千人同心」は、平時は農民として暮らし、徳川家危急の折には馳せ参ず、という。「日本の屯田の始まり」とも言われ、相模台地にあり水に不自由する当地では江戸時代後期になると、橋本小山村の名主・豪農:原 清兵衛(せいべい)が私財を投じて新田を開発します(1843)。彼が開発した新田は『清兵衛新田』と呼ばれ、現在も『清新』の地名を探すことが出来ます。新撰組隊旗-3

ほとんどが天領と呼ばれる幕府直轄領、税も少なく豊かで、豪農が多く、治安維持の為か、彼等の間では武道が盛んでした。流行していたのが天然理心流で江戸時代を通じて多摩一帯に広がります。幕末には数十の道場が開かれ、豪農出身の近藤勇や土方歳三、沖田総司等がこれを学び、その新撰組のパトロン:小島鹿之助も豪農でした。「鳥羽伏見の戦い(1868)」に敗れ、既に逃亡した徳川慶喜を追って江戸に帰った新撰組は、「八王子千人同心」の本懐を遂げるべく、甲陽鎮撫隊を編成し甲府に向けて江戸を発ちます…が、あろうことか、戦いが始まる前に凱旋気分、多摩各地で催された酒宴で酔いつぶれてしまい戦機を逸してしまいます。不様(ぶざま)でした。

20年以上前、町田にやって来て驚いたことが一つ、町田を含めた多摩地区で自由民権運動が盛んであったという。訪問したこともなく、詳しいことは判りませんが、「自由民権資料館」というものまであるそうです。今まで幕府の天領に在った豪農は自民党のようなもの、言わば当時の与党、これが明治新政府の時代になって一転、野党に転落しただけの話、新撰組のパトロン:小島鹿之助が今度は民権運動の擁護者に変わります。その後、町田を含めた多摩地区の自由民権運動は如何に日本の民主主義発展に寄与したのでしょうか…、残念ながら私は知りません。新撰組があまり好きではない私は、「坊主憎けりゃ〜」の勢いで、自分の住んでいる町田までけなしてしまいました。

元へ…。「相模台地の原っぱ」では面白くありません。やはり、こうあって欲しいものです。 「俺は相模の!」

Momo holding sign board-HKX Radio※Nobu, Kun & Isa Band の今までの曲は左サイド、I Pod 風のプレーヤーでお聴きになれます。
   
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ISAO

映画・音楽・歴史、そして、自己流ながら、水彩画を描いています。思いついたことを、気の向いたままに、イサオなりに、深く掘り下げていきます。 ※お気づきの点、改善すべき点をどうぞお聞かせ下さい。

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