July 2011

July 26, 2011

夜汽車よ、ジョージアへ Midnight Train To Georgia

今もそう呼ぶのでしょうか、ソウル、R&B(Rythm & Blues)。どうも好きになれませんでしたが、この曲は数少ない例外の一つです。『夜汽車よ、ジョージアへ  Midnight Train To Georgia』 、グラディス・ナイト & ピップスの1973年の大ヒットでしたが、残念ながら、彼らが他にどんな曲を歌っているのか全く知りません。

これほど直球、ストレートな訳で、これまた日本人に受けるタイトルはなかったのではないでしょうか。ただ、各単語を訳したら、琴線にに触れるような、それらしいタイトルになってしまった、という感じです。かまやつさんの『どうにかなるさ』にもありますが、「夜汽車」が出てくると内容以上により暗く、切なく、哀愁を感じさせます。力強く、テンポの速い彼らの曲、R&Bやゴスペル、にはどうもそぐわない感じがしたのですが、私の想像するその理由はこうです。

『どうにかなるさ』のパクリ(?)かどうか…の問題はさておき、この『夜汽車よ、ジョージアへ  Midnight Train To Georgia』こそ元歌(?)があります。ジム・ウェザリー(Jim Weatherly)は1974年、
『The Midnight Plane To Houston』を世に出します。お聴きのように、ちゃんとペダルスティール(?)が入っており、レコード会社の担当者はこの歌手がカントリー出身、この曲がカントリーであることを知っていたのです。彼は、何の苦労もせず、単に直訳して日本語タイトルを付けたのでしょう。『夜汽車よ、ジョージアへ  』とはカントリーにこそぴったりなタイトルでしょう。



この曲が世に出る経緯を彼自身が語っています。→ SONGFACTS 以下訳

私の友人、リー・メジャースファラ・フォウセットに電話で話した後にこの曲を思いついた。私たちはロサンゼルスで一緒にフラッグフットボールリーグでプレーしていました。リーはファラと付き合い始めたばかりでした。ある日リーに電話をすると、ファラがでました。話を続けると、彼女は今荷物をまとめているところと言います。彼女は家族に会うためにヒューストン行きの夜間飛行便に乗るようでした。話をしたのはほんの僅かな時間でした。電話を終わってこの曲を書き上げましたが、ほんの30〜40分ぐらい…、そんな感じでした。全く時間はかからなかった。というのはたぶん、リーとファラを曲中の人物としたからでしょう。

少女は成功しようとロサンゼルスにやって来たが、夢は叶わず、故郷へ帰ることになります。彼は彼女と一緒に旅立ちます。

至極単純な物語ですが、私にとっては現実であり、素直なことでした。私は彼らのためにこの曲を歌い、彼らもこの曲を好きでした。最初のアルバムに「Midnight Plane To Houston」を載せましたが、その半年〜一年後、アトランタのソニー・リンボーがシシー・ヒューストン(Cissy Houston ホイットニー・ヒューストンの母親、ついでにディオンヌ・ワーウィックの叔母)の曲として使いたいと言ってきました。電話で言うには、もっとリズム&ブルースぽいタイトルに、「Midnight Train To Georgia」に変更してもよいだろうかとのことで、「作者と発行者名さえ変えなければ何をやってもいいよ」と言ってやりました。




そんな経緯で、シシーの「Midnight Train To Georgia」は出来上がり、R&Bとカントリーの間をねらった曲として、R&Bチャートにも顔を出すようになりました。これをグラディスが聞きます。グラディスの曲で聞こえるバックグラウンドコーラスは既にシシーの歌にも現れていますが、より鮮明に、より重要な位置を占めるようになりました。そして、グラディスの曲は「かっこいい」怪物レコードになってしまいました。


続きを読む

express01 at 20:42|PermalinkComments(0) このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote My Scrap Book | Music

July 17, 2011

魔物、それはあちこちに

1971年、高度経済成長期に東京に大量に流入する「団塊の世代」と呼ばれる世代の住宅を確保するために、多摩丘陵の森を切り開いて造成されたのが、東西14km・南北1〜3kmに及ぶ全く人口の都市:「多摩ニュータウン」でした。理想を目指した計画と施設(インフラ)が実施された「ニュータウン」は多摩市の人口の60%を占め、豊かな税収を背景に発展しました。

私の住む町田市も、東京一局集中を背景に成長した街、東京都心から30〜35km、都内では家の買えない地方出身の「団塊の世代」が移住して来た街、という意味では多摩市と同じです。20年前に町田市にやって来た私ですが、当時、市内をバキュームカーが走るのを見て、市の大動脈であるはずの町田街道の狭さに、JR横浜線と私鉄各線の連絡の悪さに、驚いてしまいました。違いは、町田市が自然発生的に(ほとんど無秩序と同義)成長した街であるのに対して、多摩ニュータウンは100%人工的に造られた、地方から出てきた「団塊の世代」だけを住民とした、考えてみれば、奇妙な街です。

「奇妙」と言えば、先日、不思議な感覚に陥りました。多摩市は私の住む町田市の北に隣接、車のナンバーが同じ「多摩」にも関わらず、西隣の相模原市、北隣の八王子市に比べるとどこか疎遠な感じがします。私の住む「小山田地域」の位置に関係するのかも知れません。多摩市と町田市との境に、多摩ニュータウン造成当時に、自然破壊のちょっとした言い訳に、これも人工的に造られた「横山の道」と称する東西10kmに及ぶ遊歩道が整備されており、その中間地点に「一本杉公園」があります。
一本杉公園 鎌倉街道2
この「横山の道」を境に、多摩市側はニュータウンとして整然と区画整理された人口都市、反対の町田市側は、ゴルフ場はあるものの、大半は東京都の運営する緑地を中心にした「小山田地域」です。平安から中世、鎌倉時代にかけては、地名の由来である小山田氏が馬を飼育する広大な牧場、城館を備えた領地でした。話を裏返せば、開発の進んだ多摩市と遅れた町田市…。

整然と区画整理された多摩ニュータウンを中世・鎌倉時代以来の森が覆い隠しているようも見えます。
一本杉公園_小野路















the-village 1the-village 2





映画:『ビレッジ The Village (2004』(M・ナイト・シャラマン監督)森の奥深くのアーミッシュ(?)の小さな村、全員が家族のように団結し、幸せに暮らしていました。「語ってはならぬ物」、魔物の住む森には決して立ち入らないという掟を頑なに守っていました。しかし、恋人の怪我から命を救うために、その掟を破り、医薬品を求めて、森を抜け町へ向かいます。苦難の末、主人公はやっとのことでフェンスを乗り越え外界に…。かつて、主人公の祖父の時代、卑劣な事件に遭遇し、大切な人を亡くした幾組かの家族とともに、犯罪のない楽園を求めて、巨額の遺産を基に自然保護区の奥深くに造った村だった、というのがオチでした。

当時若かった「団塊の世代」は、同時に高齢となることが問題なのです。多摩市の高齢化率は、1995年には全国の高齢化率(14.5%)を下回っていましたが、2015年には全国の高齢化率(25.2%)を上回るそうです。かつては豊かな財政を背景に高度なインフラが整備され、市職員の待遇も近隣の市町村を上回っていましたが、いつしかこれが足枷に、高齢化に伴う国民健康保険、老人医療費などの増加、反対に、所得の低下する高齢者層が拡大して、個人市民税は大きく減少、赤字財政に陥ると見られています。
サンリオピューロランド看板
あれほど華やかに見えた多摩センターも、どこか、さびれて見えます。三越百貨店が居なくなり、続いてIDC大塚家具も撤退してしまいました。「サンリオピューロランド」は…?。

理想を求めて「ビレッジ」、「ニュータウン」を造りましたが、魔物は森だけでなく、町や村、あちこちに現れるようになりました。
Momo holding sign board-HKX Radio
※Nobu, Kun & Isa Band の今までの曲は左サイド、I Pod 風のプレーヤーでお聴きになれます。
       
Your Support, Please. あなたの「ポチっ」をお願いします。
にほんブログ村 歴史ブログ 諸文化の歴史へ にほんブログ村 音楽ブログ カントリーミュージックへ 人気ブログランキング


express01 at 22:16|PermalinkComments(0)TrackBack(0) このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote Local | My Scrap Book

July 01, 2011

「どうにかなるさ」の時代

かまやつひろし1970年、山上路夫の詞にかまやつひろしが曲をつけたとされますが、元歌はハンク・ウィりアムス(Hank Williams)の歌う『 Lonesome Whistle (1951)』といわれています。元歌というより…、パクリとは言わないまでも、やっぱり…そのまんまです。でも、私はこの歌が好きでした。                                            ※ボリュームに注意!


この年に「大阪万博」と「学生運動」、大卒平均初任給が40、961円の由で、当時は初任給が毎年1万円も上がる超インフレ、全国民が中流を意識し、本人が知らないうちに日本は先進国入りを果たし、大衆消費社会を謳歌していた時代でした。今の中国でしょうか…。「年間所得が1千ドルを超えると学生の反政府運動が起こる…」、と聞いたことがありまが、60年代の日本、80年代の韓国、90年代の中国がそうでした。余裕がなければ、豊でなければ学生の反乱はおきません。

夜汽車の窓からは次第に遠ざける街の明かりと重なる自分の顔。今の言葉で言う「車中泊」、次の朝、目が覚めたら新しい街に降り立っていなければならず、少なくとも5〜6百キロは離れていなければ不自然でしょう。当時の東京−大阪の新幹線、乗車券:2,810円+特急券:2,200円 =5,010円、急行「銀河」でいくらだったか忘れましたが、5千円ぐらいの旅費はかかったはずです。あり金はたいて切符をかったそうですが、それが5千円とすれば、彼はどんな生活ぶりだったのでしょうか…、想像ができません。

仕事も慣れたし街にも慣れた。1年やって来た仕事、その給料の全てを叩いて買った切符が5千円、とはどんな仕事?何の根拠もありませんが、今思いついたのですが、ひょっとしたら、新聞配達のアルバイト?そして、愛してくれた人は、配達所の娘か…。そんな生活を捨てるのも惜しいが、やっぱり、同じ毎日の暮らしがイヤになってこの街を出ることになります。

彼は喰いっぱくれて街から街へ彷徨っているわけではなく、毎日同じ暮らしがイヤになって街を出て行くのです。もう少し時代が下ると、正社員のがんじがらめの生活を嫌い、働いてお金が貯まったら、仕事を休み、バックパッキングで世界を旅行する、という需要が答えてリクルートを初めとする人材派遣会社が生まれます。しかし、いつしか、彼は歳をとってしまい、バブルは破れて立場は逆転、「必要なときに必要な人材を…」の時代になりました。多くの中流家庭が下流に流されたのもこの時代だったように思えます。

あの街を旅立って40年、彼はどうしているのでしょうね。この歳になったら、もうそんなことは言ってられないでしょう。「バカだぜおいらは〜♪」



Momo holding sign board-HKX Radio
※Nobu, Kun & Isa Band の今までの曲は左サイド、I Pod 風のプレーヤーでお聴きになれます。
       
Your Support, Please. あなたの「ポチっ」をお願いします。
にほんブログ村 歴史ブログ 諸文化の歴史へ にほんブログ村 音楽ブログ カントリーミュージックへ 人気ブログランキング

express01 at 00:30|PermalinkComments(0)TrackBack(0) このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote My Scrap Book | Music
Profile

ISAO

映画・音楽・歴史、そして、自己流ながら、水彩画を描いています。思いついたことを、気の向いたままに、イサオなりに、深く掘り下げていきます。 ※お気づきの点、改善すべき点をどうぞお聞かせ下さい。

Back Issues At A Glance
QR 携帯電話から読み取ってアクセス!
QRコード
Comments
ISAO's Bookshelf
人気ブログ ランキング
NINJA
Search