May 22, 2011

May 22, 2011

元弘3年(1333)5月22日 鎌倉幕府滅亡

小山田緑地町田市小山田と称する地域は、平安時代には朝廷の馬を飼育する牧場で、小山田氏は代々その別当(=長官)でしたが、小山田有重の時、鎌倉幕府の有力御家人の一人になります。山歩きの好きな I さんが、有重の居城(跡)とされる「大泉寺」から、「小山田緑地」を経て、その副城:「小野路城跡」・「小野路」に至る1/2 Day Walkに連れて行ってくれました。

源頼朝を頭領に幕府を鎌倉に開くに至る「源平の合戦」に始まり、「いざ鎌倉」と坂東武者が鎌倉にはせ参じた軍事道路で、鎌倉を起点に武蔵の国府である府中を抜けて上州(群馬県)高崎までが「上の道」と呼ばれ、ここで西へ分岐して碓氷峠を越えて信濃路へ、或いは東の新田荘や足利(栃木県)へ、更に北に向かう奥州路(岩手県)へ通じています。
小野神社2
「小野路」は鎌倉を出て武蔵国府:府中までの間にある宿場町ですが、戦後急激に発展した町田市にありながら「アレーっ」」と思うほど、鎌倉時代の面影を色濃く残しています。ここに、「小野神社」があります。「小野神社由緒」曰く、「小野篁(おののたかむら)の七代の孫:小野孝泰が武蔵の国司として天禄年間(972年頃)府中へと赴任した時、当地が小野郷と称したことから、篁が当地に滞在したしたものと考え、篁の御霊をこの地に祀った。」 続けて曰く、「〜小町井戸があり、当地と小野市との縁の深さを物語っています。」 …と伝説は極めて控えめです。小野篁、小野小町にまつわる神社や遺跡は全国各地にあるようです。

元弘 3年(1333年) 5月8日、後醍醐天皇に呼応して新田義貞は上野国生品明神で鎌倉幕府打倒の挙兵。総勢わずか150騎。鎌倉街道を南下、行く先々で武士団が次々に参加、数十万の規模に…、
5月11日、「小手指ヶ原の合戦(こてさしがわら 所沢市)」で幕府軍を撃破。
5月12日、「久米川の合戦(東村山市)」で幕府軍を撃破。小野路城跡
5月15日、「分倍河原の合戦(ぶばいがわら 府中市)」で敗れ、久米川まで退却。
5月16日、「分倍河原の合戦」で勝利。

絶対防衛線である多摩川(関戸)を破られ、この「小野路」→今井谷戸→本町田→成瀬と潰走する幕府軍、これを追撃する新田義貞軍、両軍合わせて何万という軍団が駆け抜けたとは、残念ながら、今の「小野路」を見る限り全く想像できません。
新田義貞軍は三手に分かれて鎌倉に攻め込みます。大館宗氏の右翼軍、片瀬・腰越から極楽寺坂へ、堀口貞満の左翼軍は巨福呂坂(こぶくろざか)に向かい、新田義貞の中央軍は化粧坂(けわいざか)を攻めます。極楽坂

5月18日、「極楽寺口」 を突破、鎌倉府内に突入。大館宗氏戦死。
5月21日、新田義貞、「稲村ヶ崎」を突破し鎌倉府内に突入。
巨福呂坂2
実は、I さんが鎌倉にも連れて行ってくれました。現代の私たちは当然の事ながら、何の抵抗も受けず、片瀬・腰越から極楽寺坂から鎌倉府内に侵入出来ましたが、「鎌倉アルプス」と呼ばれる鎌倉最長のハイキングコースを歩いた後に挑戦した「化粧坂(けわいざか)」は、「鎌倉七口」の一つですが、「鎌倉の出入り口」というより「登山口」の感、我々の間違いだっだのでしょうか…。

元弘3年(1333)5月22日、最後の執権、北條高時以下の北條氏一族及び郎党の八百余人は自刃。
現代の暦(グレゴリオ暦)では6月らしいのですが、元弘3年(1333年)の今日、鎌倉幕府は滅亡します。
Momo holding sign board-HKX Radio
※Nobu, Kun & Isa Band の今までの曲は左サイド、I Pod 風のプレーヤーでお聴きになれます。
       
 Thanks for Your Support ▼: 今日の席順は?
にほんブログ村 歴史ブログ 諸文化の歴史へ にほんブログ村 音楽ブログ カントリーミュージックへ 人気ブログランキング

Profile

ISAO

映画・音楽・歴史、そして、自己流ながら、水彩画を描いています。思いついたことを、気の向いたままに、イサオなりに、深く掘り下げていきます。 ※お気づきの点、改善すべき点をどうぞお聞かせ下さい。

Back Issues At A Glance
Comments
ISAO's Bookshelf
人気ブログ ランキング
NINJA
Search