January 2011

January 21, 2011

「アーチ」、2百年も遠回り

西ヨーロッパではルターの宗教改革(1517)が興って来ます。その対抗運動としてイエズ火天の城ス会が設立され(1534)、優秀な宣教師が布教のために海外に派遣されました。ルイス・フロイスもその一人で、彼は1569年には信長から許可をもらい、京都で布教を始め、1576年には京都に南蛮寺を建てます。

ノートルダム大聖堂1576年、信長は安土城の建築を丹羽長秀に命じます。ヨーロッパの寺院に模してその天守閣の内部は吹き抜けになっていたのでは、と推測されています。山本兼一の小説『火天の城』では、熱田の宮大工・岡部又右衛門を主人公に、彼は信長の意を受け、京都で布教活動・南蛮寺建築中のルイス・フロイスを訪ね、ヨーロッパの大聖堂がいかなるものかを研究した、ことになっています。
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この話、どうも私にはピンと来ません。ヨーロッパの建築物の多くは石造であるため、「アーチ」が建築技術上で非常に重要な要素である。アーチは古代エジプトから始まりその多くが地下の構造物であったが、地上において大きく発展させたのは古代ローマでした。アーチは2次元、これを3次元に展開したものがドーム、フロイスも11世紀末〜12世紀にかけて始まったゴシック建築をその目で見てきたはずです。

鉄砲の伝来とともに日本に入った「ネジ」、しかし「ネジの概念」は日本に全く根付きませんでしたが、この「アーチがヨーロッパの建築技術上で重要な要素である」ことも、当時の建築の第一人者:岡部又右衛門は全く理解していなかったのです。そもそも、信長が宮大工:又右衛門に任せたのが間違いでした、とは言い過ぎでしょうか…。

近江坂本には古墳時代、その制作に活躍した大陸からの帰化人の石工集団:「穴太衆(あのうしゅう)」が集団生活をしていました。比叡山の延暦寺等の建築のためでしたが、比叡山を焼き討ちした信長は、彼らの石垣建設技術の高さを知り、安土城の石垣建設に参加させます。もし、信長が、又右衛門ではなく、「穴太衆」に安土城築城の全てを任せていたら…。彼らは石工、フロイスのもたらすヨーロッパの建築、「アーチが重要な要素」を理解したのではないでしょうか。この辺が織田信長の限界のようにも思えます。

加藤清正は朝鮮出兵時に豊臣秀吉の死を知り、関ヶ原の戦い(1600)では東軍に参加、世情の混乱に乗じて、肥後熊本に熊本城を作るのですが(1601年開始〜1607年完成)、近江坂本から「穴太衆」を呼び寄せ、従来から在る阿蘇の溶結凝灰岩加工技術、これに朝鮮で獲得した築城技術が加わって完成しました。熊本城の石垣の堅牢さや、防衛能力は270年後の明治10年、西南の役(1878)で証明されることになります。穴太衆はその後もこの地に残り、河川の改修、灌漑用水路、干拓事業など、清正が力を注いだ治水土木工事にその技術を発揮し、彼らの技術はこの地に根付いていきます。その後加藤家が改易となり、新たに肥後熊本の領主となった細川忠利は、清正の霊位を先頭にかざして肥後に入部します。如何に清正の治世が如何に高く領民に評価されていたか、ということでしょう。

琉球には古くから「アーチ」、「アーチ式石橋」の技術が中国から入っていましたが、九州最古の石造りのアーチ式石橋は、1634年、長崎県の中島川にかけられた「眼鏡橋」といわれています。その「穴太衆」の子孫は地元に同化、棟梁:仁平は長崎に留学して、中国出身の興福寺住職:如定(にょじょう)が架設した多くの「眼鏡橋」を研究、職人:仁平は長崎で中国式石橋の技術を習得し帰郷後、1753年「仙国橋」、1774年「洞口橋」を造ります。

「アーチ」が古代エジプトからか、それとも中国から始まったのかは知りませんが、安土城建築の時がそれを知る絶好のチャンスだったのですが…、日本人が理解したのは江戸時代の話、200年も遠回りしたことになります。


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January 06, 2011

WATARIDORI

カモ実は、私はインフルエンザウイルスが交易による人の往来が感染を拡げるものと思っておりました。ウイルスが渡り鳥によって運ばれて来るものであると知ったのはつい最近のことです。

12月2日、島根県安来市で見つかった高病原性鳥インフルエンザウイルスは、10月14日に北海道稚内市でカモのふんから採取されたウイルスと遺伝子の配列が99%一致。「渡り」の早い時期に北海道に着いたことから、カモは中国を経由せずにシベリアから直接飛んできた可能性が高いという。

冬季に大流行し春には収束するという周期性から、星の運行や寒気の影響によるものと考えました。「インフルエンザ」はイタリア語:influenza (ラテン語: influentia).からの転用、口語では「flu」と短縮して使用します。最近では、「流行性感冒:流感」という言葉もあまり聞かれなくなり、TV・新聞でも「インフル」の略語が使われるようになって来たようですが、此処に至り同じ短縮するのであれば、英語と同じ「フル」にしておけばもっと便利だったのでは…。

スペイン風邪(1918)、アジア風邪(1957)、香鹿児島県ツル保護会港風邪(1968)、ソ連風邪(1977)と、呼び名は違っても、実はそれらの起源は全て中国です。それは中国が世界最大のカモの産地であるからです。「口蹄疫」は牛・豚・羊など家畜が感染するのですが、「インフルエンザ」は、ヒト以外の動物にも感染する人畜共通感染病です。特異なのがカモで、通常インフルエンザウイルスは肺や気管支などの呼吸器に感染し増殖しますが、カモの場合は腸の中で増殖します。カモ自体は何の症状も起こさず、ひたすらウイルスが大量生産され、糞とともに排泄されるわけです。

では、どうして鳥インフルウイルスは拡大したのでしょうか?主に渡り鳥に依るといえるらしいのですが、渡り鳥自体が強毒性の鳥インフルエンザウイルスに感染して、その目的地まで飛来するまでに死んでしまっており、今回の出水市で死北極中心 渡り鳥ルートんだ野生のナベヅルからの発見は貴重なものです。彼らの方角ジャイロは、北極(N極)と南極(S極)を感知して飛んでいるので、南北には飛べるが、東西には飛べないのです。ここに、局地的には交易などの人為的要素が入り込む余地はあるのですが、中国でウイルスの宿主となった渡り鳥は、シベリア(北極圏)へ戻り、そしてその保留地で他の渡り鳥に感染します。 そしてウイルスを移された他の渡り鳥が日本へとと飛来するのです。

素人の妄想ですが、シベリア(北極圏)に立てば、どちらに向かっても「南」に飛ぶことなり、既にシベリア(北極圏)もウイルスに汚染されているのであれば…、今回日本へやって来たと同じようにヨーロッパに、アメリカに向かった渡り鳥もいるはずです。

ひたむきな…、一途な…、渡り鳥の飛行。強毒性の鳥インフルエンザウイルスとは全く結びつきません。今年も、近所の公園の池にカモはやって来ています。カルガモの親子など毎年ニュースになるぐらいです。強毒性の鳥インフルウイルスを運んできているかも知れないのですが、その穏やかな風景とはあまりにも対局にあります。


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映画・音楽・歴史、そして、自己流ながら、水彩画を描いています。思いついたことを、気の向いたままに、イサオなりに、深く掘り下げていきます。 ※お気づきの点、改善すべき点をどうぞお聞かせ下さい。

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