November 2010

November 29, 2010

憧れの地、湘南 〜 ミーハーですが…

私は高校時代を伊丹(大阪空港が在るのですが、兵庫県です)ですごしました。北に川西市が隣接していますが、失礼ながら当時は田舎、阪急宝塚線「川西能勢口」駅から、あくまでも当時ですが、牛が線路に寝そべっていてもおかしくない「能勢電鉄」に乗り換え、猪名川に沿って行くと源氏発祥の地、清和源氏を祀る「多田神社」にたどり着きます。

清和天皇(850-881)を祖とす鶴ヶ丘八幡宮る清和源氏の一流、河内源氏が東国(関東)に勢力を伸ばし、頼朝の代に武家の棟梁として、「征夷大将軍」の位を得、初めての武家政権、鎌倉幕府を開きます(1192)。

葉山海岸その高校時代の友人が鎌倉に遊びにやって来たので、…牛は引いて来ませんでしたが…、町田に住む私にとってはそう遠くない所、鎌倉近辺を付き合うことにしました。京都を見慣れた関西人にとっても鎌倉は魅力、相模湾に面したいわゆる「湘南」は憧れの地です。

明治以降、東京近郊の海水浴場として整備され、富裕層によって別荘が建てられたことに由来します。富裕層の流入はそのパトロンとして芸術・文化を興隆させることになりますが、鎌倉を中心とする「湘南」はその集積地となります。戦後、石原慎太郎の『太陽の季節』、『狂った果実』に描かれた『太陽族』は映画化され「湘南」文化の大衆化が始まりました。
裕次郎の碑
私のお目当ては葉山、裕次郎の遊んだ葉山海岸の近くにそれはあります。『日影茶屋』、ここは映画:『エロス+虐殺(1970 吉田喜重監督)』で描かれた『日陰茶屋事件(1916、大正5)』の舞台です。

日陰茶屋2無政府主義者:大杉栄は妻:堀保子との結婚生活に在りながら、女性文学集団:『青鞜社』主幹の伊藤野枝と、さらにもう一人、新聞記者:神近市子と四角・恋愛関係に在りました。『日陰茶屋』に大杉栄と伊藤野枝が逗留、そこに嫉妬に狂った神近市子が短刀を持って乱入、大杉栄を刃傷に及びます。この男女の関係だけでも十分スキャンダラスなのですが、この刃傷事件は極めつけでした。結果、神近市子は服役、妻:堀保子とは離婚、最終的に伊藤野枝が勝利しますが、その後関東大震災が発生(1923)、その混乱時に大杉栄と伊藤野枝は憲兵大尉:甘粕正彦に殺された、とする『甘粕事件』が起きます。

『日陰茶屋事件』とは…、名前に罪はありませんが、その内容からしても、「輝く太陽と青い海」の湘南にはどうもしっくり来ません。やはり、戦後の大衆文化:『湘南ブランド』路線で行きましょう。この『日陰茶屋』、現在は一字が変わって『日影茶屋』、昼食のお弁当がホストの私には高すぎます。残念というより、幸いなことに定休日で断念、近くある『LA MAREE DE CHAYA』に入りました。ここの総料理長だった熊谷喜八さんさんが、1987年に南青山に最初の無国籍料理:『KIHACHI』を開き、今や全国ブランドです。

石原慎太郎の『太陽族』はその弟:裕次郎主演で映画化。それに続く加山雄三はエレキブームに続くフォークブームにも多彩な才能を発揮します。因みに私が最初にギターを覚えたのは彼の『君といつまでも(1965)』、以降私のギターの技量はほとんど進化していません。そして、桑田佳祐(サザンオールスターズ)。1978年の歌番組:『夜のヒットスタジオ』で聞いた彼らのデビュー曲:『勝手にシンドバッド』は強烈でした。

お金持ちの「不良息子」→同じくぼんぼんの「好青年」→どこにも居そうな「音楽馬鹿息子」、と変遷を辿りながらも、根底には「輝く太陽と青い海」という「湘南」大衆文化としての『湘南サウンド』の系譜があるようです。「都会的な明るさ」は大いに魅力なのですが、明るいだけの「軽さ」につながっているようにも思えます。『日陰茶屋事件』に違和感があるように、石川さゆりの『天城越え』が「湘南」の地から生まれることは決してなかったでしょう。



ps: 関ヶ原の戦い(1600)に勝利した徳川家康はを頼朝を踏襲、江戸に幕府を開きます。「源氏」を名乗った彼は、祖先への感謝のために…、かどうかは知りませんが、猪名川の河口、尼崎に在った漁村:佃の漁師に舟を引かせて猪名川を遡上、「多田神社」を参詣します。後に江戸に幕府を開くと、その労に報いて、彼らの江戸進出を許します。佃煮(つくだに)で有名な佃島(つくだじま)の始まりでした。

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November 13, 2010

ブログランキングのお隣さん

More Than_1「なぜブログタイトルが Hong Kong Express 〜なの? 」、と不思議に思う方もおられるでしょう。「お店で紹介できない商品にまつわる情報を公開すれば…」とのアドバイスで始めたブログで、今となってはブログを始めた趣旨も何処へやら、すっかり個人的に興味のあるテーマになってしまいました。そろそろタイトルも変えなければ…。

そうこうする内に欲も出て、「日本ブログ村」のブログランキングに参加しするようになりました。48万ものサイトが参加しており、記事を書けそうなカテゴリーを見ても、「音楽」:19千サイト、「歴史」:2千サイト、これでは埋没してしまうのは明か、人の目にとまるような上位に食い込める自信は全くありません。その中でもさらに細分化されているのですが、ここは「興味があり、且つ、参加者が少ない」カテゴリーに参加するのが得策、とばかりににほんブログ村 音楽ブログ カントリーミュージックへ(参加25人)とにほんブログ村 歴史ブログ 諸文化の歴史へ(27人)に参加しました。

こと音楽に関する限り、私の好きなジャンルを、敢えて、言葉で表すならば「カントリーぽい(味付けの・もどきの)ロック」と言うことになり、実は、「ど」カントリーはあまり好きではありません。レコード会社は購買層の最大であるポップス(大衆音楽・歌謡曲)部門で売れることを目指すのでしょうが、アメリカでも今やマイナーなカントリー部門、敢えてこの部門でデビューすることがあるようです。この例にならって「カントリー」に参加した訳ではありませんが…。

「カントリー」に参加されている方々のブログを拝見します。カントリー・ダンス、聞くことから入って来られた方、既にプレーヤーとしての長いキャリアとファンを持っておられる方…、さすがに皆さんカントリーがお好きな方ばかりで、似非カントリーファンの私には新しい発見も多く、楽しく読ませて頂いています。

先日、そのランキングお隣さんのブログ:『マスターの、ため息交じりのひとり言』を訪問させて頂きました。タイトルにあるように、池袋にある LIVE Bar Sunny Spotのマスター:トモさんという方のブログです。実は、全く面識もなく、そのお店におじゃましたこともありません。ブログの右サイドにお店でのライブの様子を見る(聞く)ことが出来ます。

彼が歌うその曲、『More Than I Can Say』を聞いて、「あれっ」、その昔レオ・セイヤーが歌っていた曲と記憶しており、カントリーで歌われているのは知らず、新鮮に聞こえました。彼に真似て私もやってみようと、早速、バンド仲間に相談すると、昔々はBobby Veeという歌手が、カントリーではSammy Kershaw が歌っている、とは仲間の言。余談ながら、この曲、台湾・中国でも人気があるようで、かのテレサ・テンも歌っています。

ご挨拶が最後になってしまいました。

トモ様 
初めまして。ご近所でいつも勝手におじゃまさせていただいている、イサオと申します。どうぞよろしくお願い申し上げます。

池袋に在るリアルなお店:「Sunny Spot」におじゃまするには、それまでに我々の歌を聴いてもらわなければ…と、あせるあまり、「練習不足で恥ずかしいのでは…」という仲間の意見を押し切って、独断で公開してしまいました。お聞き苦しいところはどうぞお許し下さい。



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November 02, 2010

桜田門外ノ変

Momo with Glasses桜田門外ノ変2
Yamaさんは映画ファン、早々と「桜田門外ノ変」を見たそうで、原作者:吉村昭の創作ノートの一部を紹介されています。「攘夷思想が何故水戸藩に興ったのか」、という素朴な疑問に、水戸藩領は太平洋に面した長い海岸線を持ち、近海での外国(アメリカ)捕鯨船の遊弋に接し、外国勢力の圧力に敏感にならざるを得なかった 、という説は新鮮です。

「尊王攘夷」は中国、春秋戦国時代の標語で、それを輸入、日本の事情に合うよう「尊皇攘夷」としました。中国からもたらされた朱子学は江戸時代、林羅山によって武家政治の基本理念として再構築され、徳川幕府の正当学問となります。朱子学に基づいて編纂された『大日本史(1657開始〜1906完成)』は尊王論、編纂を始めた水戸光圀は御三家のひとつである水戸徳川家当主であり、これを水戸藩の学問:『水戸学』として発展させます。

幕末、その『水戸学』が一大思想:「尊皇攘夷」思想となりますが、徳川斉昭はその思想の具現者として徳川家康の業績を賞賛したように、「尊皇攘夷」思想と徳川幕藩体制は何ら矛盾してはいません。「尊皇攘夷」思想は幕末に顕在化しますが、言葉はともかく、思想そのものは、日本の権力者がごく当たり前に持っていたと言えます。

源頼朝は天皇から「征夷大将軍」という官位を得て、京から離れた鎌倉幕府を開き(1192)武家政治は始まりました。天皇は、政権から遠ざけられて久しいのですが、その時々の政権にその正当性を与える、天照大神から連綿と続く日本の最高権威者でした。徳川家康も、既に全く非力な存在となった天皇より「征夷大将軍」の官位を得てその統治に正当性を獲得、加えて、「東照大権現」という伊勢神宮と同格の神階を獲得します。

権威者が権力者に「正当性」を与え、見返りに「保護」を受ける、どこか、西ローマ帝国崩壊( 476年)直後におけるローマ教皇と侵入してきたゲルマン諸王との関係に似ていなくもありません。中世西ヨーロッパに於いては、権威者(ローマ法王)が権力者(ゲルマン王)を凌駕することにもなるのですが、日本では、南北朝の一時期を除いて(?)、権威者(天皇)が権威以外の力を持つことはありませんでした。

戦国の世を平定して徳川幕府を開き、以降代々「征夷大将軍」の官位を保持して来ましたが、幕末に至り、外国勢力の圧迫に「征夷大将軍」はあまりにも無力、「夷を征する」こと、「攘夷」が出来ない「征夷大将軍」はもはや「征夷大将軍」ではないということだったのでしょう。徳川幕府を「征夷大将軍」の官位に値しないと見て、「尊皇攘夷」は「尊皇倒幕」に変わって行きます。

藩政改革を成功させた徳川斉昭は次に幕政改革に乗り出しますが、大老:井伊直弼との権力闘争に破れます。実権を握った井伊直弼は勅許を待たず日米修好通商条約に調印、徳川家茂を将軍継嗣に決定、これに反対する多くの人間を粛正・弾圧(安政の大獄(1858~1859)、「桜田門外の変 1860」はこんな中に起こった事件でした。

襲撃者は、薩摩出身の例外はあるものの、御三家の一つである水戸の脱藩浪人、被害者はこれまた徳川家譜代中の譜代:彦根藩と、徳川政権内部の抗争と言っても良いでしょう。

井伊直弼を護衛する彦根藩士は狼狽の為か、多くが現場を逃走、井伊直弼の首を取られてしまいます。井伊家は家康の時代からの譜代、甲斐武田軍団の遺臣を配属されて以降、「井伊の赤備え」と呼ばれる精鋭・最強の軍団で、西国・京都を睨む最前線という意味で彦根に居城していたのですが、主君の首を取られる大失態をしでかしてしまいます。変後、彦根藩は、主君を護れなかった罪で、警護の藩士に、無傷者には処刑、軽傷・重傷者には切腹を命じます。よほどの恥辱だったのでしょう。

以降、井伊家は幕閣内でないがしろにされるようになり、さらに水戸出身の一橋慶喜(徳川斉昭の実子)が将軍職に就き、第二次長州征伐(1868)では「井伊の赤備え」が長州軍の格好な標的となり大敗。ここで時勢を見極めた…というか、やる気をなくしたのか、開き直ったのか、鳥羽伏見の戦いでは官軍に寝返り、以降の戊辰戦争ではその先鋒として関東に弓を引くことになります。桜田門外で受けた恥辱が動機でしょうか…。

一方の水戸藩、明治維新遂行の原動力となりながら、藩内の凄惨な抗争に明け暮れ、その後は舞台の主役になることはなく、いざ明治新政府が誕生、新国家建設の段階になると、残念ながら新政府に送り出すべき人材はもはや底をついていました。

1860年、年号は安政から万延に変わります。「攘夷」を求めて決起した「桜田門外の変」、皮肉なことに、これを潮目に「尊皇攘夷」の流れも「尊皇倒幕」に変わったように思えます。

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映画・音楽・歴史、そして、自己流ながら、水彩画を描いています。思いついたことを、気の向いたままに、イサオなりに、深く掘り下げていきます。 ※お気づきの点、改善すべき点をどうぞお聞かせ下さい。

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