August 2010

August 22, 2010

巨大な巡礼、十字軍

坂東三十三観音巡礼「坂東三十三観音札所巡り」にはまっている大先輩がおられます。西国出身の私、信心もなく、知識もありません。「四国八十八ヶ所巡礼」、「西国三十三札所巡り」という言葉を聞いたことはありますが、関東にもあるとは知りませんでした。1184年、源頼朝に「平家追討の宣旨」が下り、多くの板東武者が西日本を転戦します。平家打倒を成し遂げた頼朝は関東一円の武士の統領とし源平の戦いて、1192年鎌倉幕府を開きます。西国を見聞した彼らに、それにに習って同じような札所を作ろうという機運が高まり、また頼朝が観音信仰に厚く、源平の戦いの供養のために作られたのが始まりだそうです。

ちょうど同じ時代、というのが面白いのですが、舞台は西ヨーロッパ。キリスト教においても、エルサレム、ローマ、サンティアゴ・ デ・コンポステーラ(スペイン)の3大聖地への熱病的な巡礼、高揚が最高潮に達することなります。一方では、天に限りなく近づきたいという思いからか、高い尖塔とステンドグラスを特徴とするゴシック大聖堂が各地で競って建築されましたが、多大な庶民の熱病的な寄進、献身的な労働があってたそうです。聖地巡礼、ゴシック大聖堂建築に共通するのは単なる信仰心の熱病的な高揚だけではなく、免罪符を得んが為に巡礼に出、大聖堂建築に寄進あるいは無償の労働に従事したのです。

ゲルマン人の侵入により西ローマ帝国は崩壊(467年)、彼らは侵入してきた蛮族、より高度な文明を持つ先住民族(旧ローマ帝国市民)の支配・統治に利用したのがキリスト教(ローマ教皇)でした。ゲルマン人王はローマ教皇の権威を認め、その権威に基づき、ゲルマン王の支配・統治に正当性を与え、その見返りに、ローマ教皇は経済的・軍事的な保護を得るという、並立・相互依存・二重支配の構造でした。結果、ローマ教皇は全ヨーロッパから土着の異教を駆逐、キリスト教一色に塗り替えてしまい、ついには、ローマ教皇が、ゲルマン王を凌駕し、西ヨーロッパにおける最高権力をその手に握ることになります。

かろうじて余命を保っていた東ローマ帝国(ビザンツ帝国)は東方のササーン朝ペルシアやイスラム帝国に領土を侵食され徐々に衰退、ローマ教皇に救援を求めます。ローマ教皇は、「待ってました」とばかりに、その要請を受け入れ、教皇権優位の確立、東方正教会(今でいうギリシャ正教会)の併合という「真の」政治目的達成の為に、民衆を扇動、十字軍を組織します。

Crusader Shield異教徒からの聖地エルサレムの奪回』の大義名分と「異教の地で命を落とした者、異教徒と戦って命を落とした者は全て罪の許しが与えられる」、この免罪符に呼応して、敬虔な信者だけではなく、多くの民衆・一般庶民が十字軍に参加します。ゴシック大聖堂建築に注いだと全く同じ熱病的信心にさらに免罪符というおまけまで付いていました。

「十字軍」はローマ教皇が企てた、支配階級そして一般民衆を熱狂に巻き込んだ巨大な「巡礼」であったということができるでしょう。「十字軍」、英語では「Crusader、Crusade(聖戦)」。『イラク戦争』でブッシュ政権はこの表現を使いました。同じキリスト教国家であるフランス、ドイツの反対にあいましたが、異教徒にも係わらず日本はその「十字軍」に荷担することになります。
Entry of the Crusaders into Constantinople
1095年から1272年にかけて計9回の遠征がなされます。 第1回遠征(1095〜1099)では聖地エルサレムを奪回に成功しますが、極めつけは第4次十字軍(1202〜1204)、巡礼は聖地へは向かわず、あろうことか、助けを求めてきた東ローマ帝国(ビザンツ帝国)の首都:コンスタンチノープルを攻撃する始末で、帝国崩壊を加速させます(1453年オスマントルコにより滅亡)。

西ローマ帝国の崩壊以降、5世紀から12世紀にかけて、西ヨーロッパ文明は停滞します。「ゴシック様式」と呼ばれるキリスト教様式も、本来の意味「(野蛮な)ゴート人(ゲルマン人)の」という、後のルネッサンス人が付けた蔑称を起源とするもので、「暗黒時代」とはこの時代のことか…、文明的にもビザンツ、イスラム、中国の諸文明からかなり遅れていたのでしょう。

コンスタンチノープル陥落の混乱を避けて科学者・文化人は西側に逃れ、これを契機に、ヨーロッパ人のヨーロッパ人たる所以、ルーツ:「ギリシャ・ローマの文化」、これを継承・発展させた「ビザンチン文化」、さらには、中国、インド、アラビア、ペルシア、ギリシアの諸文明を融合、自然科学を発展させた先進の「イスラム文明(文化)」をもたらします。これが反キリスト教の色彩を帯びた「ルネッサンス」を加速、皮肉なことに、ローマ教皇の権威を低下、そして遠征の主導力:騎士階級を弱体化させる結果となります。
Knight
地球の反対側では武士(さむらい)による社会が始まりますが、忠誠、武勇、寛容、礼節の中世騎士道のロマンは終焉を迎えます。

冒頭の彼、毎週末、電車や車で巡っておられるそうで、「これではあんまり御利益はないのでは…」と思うのはともかく、最近では、ただお寺を巡って「手を合わせるだけでは芸がない」、と一念発起、『般若心経』を諳んじるまでになったそうです。音楽が趣味の一つの私なのですが、歌詞を3番おろか1番さえも覚えられず、歌詞とギターコードを目の前にしないと歌うことが出来ない人間にとって、「般若心経を諳んじる」、とは神仏のなせる業です。

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August 10, 2010

プリティーウーマン、長い前段ですが…

関西からやって来た当初は東京の道路はわかりにくいものでした。侍(さむらい)の街、防御が目的なのか、江戸城(皇居)を中心に放射状に広がっており、いつ頃その名前が付けられたのか知りませんが、青山通り、明治通り、靖国通り等はともかく、ほとんどの道路には名前がありません。

大阪は商人の街、合理的な碁盤の目、南北は「筋」で、西からなにわ筋・四ツ橋筋・御堂筋・心斎橋筋・堺筋・松屋町筋・谷町筋・上町筋です。東西は「通り」です。土佐堀通り・本町通り・千日前通り・長堀通り 等々。京都に至っては、徹底的な碁盤の目、ほとんどの大路・小路には名前が付いている由。どうも、時代を遡るほど合理的だったようです。

「ローマ人は出来る限り道路を直線に建設したが、後からやって来たアングロ・サクソン人は都市防衛のために曲がりくねった道を造った」とは、イギリス人から聞きましたが、よく似た話です。

では、全く違うところ。ローマ人が始めたかどうかは知りませんが、少なくとも欧米では道路には全て名前が付いています(少し後退して、…と、私は信じています)。住所の特定方法ですが、どちらも最小行政区(市・郡・町)までは同じなのですが、日本では1丁目1番地の様にあくまでも土地の区域(区割)を示しますが、欧米では必ず道路に名前があり、番号(Street No.)がふってあります。片側が奇数、反対側が偶数というあんばいで、道路名さえ判れば簡単に目的地に辿り着くことが出来ます。日本でガラパゴス的進化を遂げたカーナビが、欧米ではあまり普及しないのはこれが理由なのでしょう。

ロサンゼルスでレンタカーを借りたことがあります。走っていたのはWilshire Blvd(Boulevard)。私が「ウイルシャイアー・ブールバード」と案内板を読むと、助手席に座る博学の彼曰く、「違う。ウイルシャーだ」と…。後から思えば「なるほど」なのですが、単語としてshire は fire と同韻、そう発音してもおかしいとは思いませんでしたが、彼は続けて、「接尾語の shire は古英語で土地の区域(区割)を意味し『シャー』と発音する。例えばBerkshire(バークシャー), Hampshire(ハンプシャー), Lancashire(ランカシャー),Yorkshire(ヨークシャー)、 現代英語では county(=郡)。 」 …なるほど…。余談ながら、アングロ・サクソン王からシャー(=郡)の治安維持を目的に任命されたのが Sheriff(シェリフ)で、ずーっと後、これがアメリカに渡り、西部劇でおなじみのシェリフ(保安官)になります。

彼の話は続きます。「Blvd(Boulevard) はフランス語(さらに源を辿るとオランダ語)から転移したもので、オックスフォード英語では、片側複数車線、両側に並木、中央分離帯に植木のある幹線道路」とのこと。もっともらしいですが、走っている「ウイルシャー・ブールバード」には中央分離帯はありません。
BeverlyWilshire
元へ。車は西へ、古いですが…桜田淳子のあの歌でご存じ、サンタモニカに向かって走っています。9500 ウイルシャー・ブールバード、そうです左に、あの伝説のビバリー・ウイルシャー・ホテル(The Regent "Beverly Wilshire Hotel", 9500 Wilshire Boulevard) が近づいて来ます。映画撮影の為にエルビスが長期滞在したところ、彼に憧れたジョpretty woman posterン・レノンが宿泊、そして、あのジュリア・ロバーツとリチャード・ギアの映画:『プリティーウーマン』の舞台です。

実はこの映画、『プリティーウーマン』を見ていません。映画は見ていませんが、ロイ・オービソンの歌う『オー・プリティーウーマン Oh Pretty Woman』はお気に入りです。エルビスの後を追いかけるようにサンレコード(Sun Record)に入りますがroy orbison、長い間日の目を見なかったようです。私見ながら、どうもあの風貌と声が当時のロカビリーには向いていなかったようです。しかし、多くの歌手にカバーされ、大きな影響を与えた彼でした。

東京・大阪・京都の道路から始まり、番地、Street No.、ローマ、アングロサクソン、古英語、フランス語より転移のブールバードの話まで…、やっとのことで『プリティーウーマン』に辿り着くことが出来ました。むりやり、強引に持って来た『(オー・)プリティーウーマン』をお聞き下さい。



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August 03, 2010

鄭和 〜水平線の彼方に

『2001年宇宙の旅』、次は大航海時代を書きたくなりました。

「大航海時代の西ヨーロッパは(世界の)後進地域だったのでは…」とは「人生の大先輩」である友人から聞いた話。教科書で学んだ「コロンブスのアメリカ大陸(西インド諸島)発見」は1492年、大航海時代のクライマックスです。

驚くべきはこのコロンブスを先んずること87年、中国は明(1368 - 1644)の時代、鄭和(Zheng He)が永楽帝の命で大船団を率いて、南シナ海、マラッカ海峡を越えて、インド洋に出、最終的にはアフリカの南端:喜望峰に達する遠洋航海をしました。1405年に開始され1433年に最後となる遠洋航海は実に7回にも及びました。鄭和の旗艦:「宝船」は全長:120mとコロンブスの乗船:サンタ・マリア号の4倍の大きさでした。船の大きさに留まらずその規模が、コロンブスの場合は3隻の船と120人の乗組員だけですが、鄭和のそれは62隻の船と28千人の大船団でした。14世紀当時、造船技術、航海術、組織運営技術等、中国文明が圧倒的に優位に立っていたのでしょう。

鄭和の使命は"Go beyond the horizon"、「行け!地平線の彼方に」。 …もちろん中国語でしょうが、どこか、『2001年宇宙の旅』のディスカバリー号を連想させます。


さらには、鄭和艦隊は喜望峰を越え大西洋へ、新大陸(南北アメリカ)を発見した、という説を主張する研究者もいるようです。こうなるとGavin Menziesコロンブスも全く形無しで、影が薄くなってしまいます。「大航海時代 Age of Geographical Discovery」は世間知らずの、片田舎のヨーロッパ人から見て…というただし書きが必要になってきます。

鄭和は現在の雲南省昆明の出身、彼の一族は馬氏を名乗り、…そういえば私の知り合いに中国系アメリカ人にMr Ma(馬)という人がいます。あるいは、北京オリンピックの数年前、中国陸上競技の名コーチでその名を世界に知らしめた「馬軍団」はそれと関係があるのでしょうか…、「馬」は予言者モハメッドの子孫を意味する西域出身のイスラム教徒で、その一族は先のアジア・ヨーロッパに跨る一大帝国を築いたモンゴル人の王朝:元の時代(1271 〜 1368)、その行政手腕を買われて移住してきたのでした。…またまた、そういえば、民族問題で揺れる新疆ウイグル自治区から来たのであろうか、広州でさえもイスラム寺院や明らかに目鼻立ちの違う人たちを目にすることが出来ます。

8〜11世紀、イスラム文明(中央アジア〜中近東〜地中海)が世界を席捲していました。モンゴル人元は、イスラム文明の、商業技術、航海技術、交易ルートを継承、1275年、イタリア人 マルコ=ポーロがフビライに会うまでに国際交易ルートは整備されていました。さらに国際性の継承は優秀な外国人商人・技術者そして馬一族のような行政官の登用に繋がりました。

鄭和漢民族王朝故か、明代に於いては万里の長城を補強・拡充、基本的には「内向きな」政策に転換するのですが、対外的には朝貢外交・柵封体制で、鄭和の遠洋航海も、元の対外政策の花が遅れて咲いたようにも見え、この朝貢外交・柵封体制の域を出るものではなかったように思えます。イスラム圏の商人・航海者が既に築いていた交易・航海ルートの多くを辿ったのでしょうが、その航海の目的は南シナ海・インド洋での海上覇権を樹立することによって諸国の朝貢を促し、明朝・永楽帝の威信を高めることにあり、儒教的考えからか、商売・交易、況わんや領土拡大ではなかったように思えます。

マラッカ王国(現マレーシア)は鄭和に始まる南シナ海・インド洋覇権の拠点でしたが、明の柵封体制の下で繁栄するのですが、1509年ポルトガルに占領されてしまいます。マラッカ王は明にポルトガルの暴挙を訴えるのですが、明がマラッカ奪還に艦隊(軍)を送った形跡は見あたりません。鄭和、最後の遠洋航海から70年、明には、万里の長城を外に出て、対外戦争を行う海軍力は既にありませんでした。

ヨーロッパに目をやると、ルターに始まる宗教改革の嵐(1517年〜)は目前です。西ローマ帝国崩壊で、西の端の片田舎に成り下がった西ヨーロッパは、キリスト教を変化の核に、中世から近世へと、近代ヨーロッパ文明の萌芽が次々と現れています。

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映画・音楽・歴史、そして、自己流ながら、水彩画を描いています。思いついたことを、気の向いたままに、イサオなりに、深く掘り下げていきます。 ※お気づきの点、改善すべき点をどうぞお聞かせ下さい。

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