September 2009

September 23, 2009

「エトロフ遥かなり」、スペイン内戦

エトロフ遥かなりNHKで「エトロフ遥かなり」というドラマがありました(1993)。原作は、佐々木譲の「エトロフ発緊急電」。日米開戦前夜、日本海軍に依る真珠湾攻撃の真偽を確かめるため、日系アメリカ人スパイ:ケニー斉藤(永澤俊矢)が単身、憲兵(秋野太作)の執拗な追跡をかわしながら、択捉島に潜入、女主人・岡谷ゆき(沢口靖子)と運命的な出会いを果たす、という物語で、吉永小百合主演の「夢千代日記」と並んで双璧をなす傑作でした。…とは、私だけが思うことでしょうか?

主人公:ケニー斉藤にはどこか暗い影がつきまとっています。実は、彼にはスペイン内戦で義勇軍に参加して大きな挫折を味わった過去があります。

International_Brigades_poster11936年、人民戦線政府が成立すると、フランコ反乱軍は、ナチスドイツ・ファシストイタリアの支援を受けて、首都マドリッドに向けて軍を進めます。革命の飛び火を恐れた諸外国はこれを傍観、人民戦線政府はソ連の支援を受けるも、政権内部の不統一もあり、戦線の多くでフランコ反乱軍に圧倒されます。コミンテルンの決議により、人民戦線政府は世界に呼びかけて義勇軍:国際旅団を編成することになります。

しかし、人民戦線政府による旅団内部の共産主義者以外の参加者の粛正、独ソ不可侵条約を締結(1938)というソ連の裏切り行為は両者に対する幻滅へと変わり、失意のうちに国際旅団解散となります。国禁を犯して参加したメンバーは帰国出来ず、現地に留まった者もあり、メキシコは彼らの一部を亡命者として受け入れます。帰国がかなったとしても共産主義者のレッテルを貼られ、悲惨な後半生を強いられることになります。

その一人がケニー斉藤という訳です。そのモデルとなった人物が所属した部隊:エイブラハム・リンカーン旅団の記録(The Abraham Lincoln Brigade Archives)にはこう記されています。

義勇兵 Jack Shirai(ジャック白井)
志願前の軍歴:日本陸軍に1年
職業:コック
所属政党:アメリカ共産党
入党時期:1930年
所属部隊:第15リンカーン大隊、司厨長
1937年ブルネテ(Brunete )にて戦死

それは1970年頃だったと思いますが、五木寛之が週刊誌のインタビューで、「スペイン内戦に義勇軍として参加したたった一人の日本人(正しくは日系アメリカ人)を誇りに思う」と語っています。チャーチルの言う(実は、少々意味が違うらしいのですが…)「若くして共産主義にかぶれない者は情熱が足りないが、年を取って共産主義にかぶれている者は知能が足りない。」 五木寛之の1970年も、1936年の義勇軍参加の時代も、彼の(?)名言の前半部分の時代、ということだったのでしょう。

1929年、アメリカに始まる世界大恐慌の過酷な体験は多くの若者を共産主義に走らせます。スペインでの人民戦線政府に依る義勇軍:国際旅団編成の呼びかけに、ドイツ・イタリアを含む世界52カ国から6万人が参加し、内1万人が戦死、とは「かぶれる」というより、「熱狂・熱病」と言うべきでしょう。

これは、スペインの文化・風土とうり二つに見えます。
気候・風土に恵まれた土地、早くからローマ帝国の一角を担い、帝国崩壊後は西ゴートの支配、8世紀初頭にはイスラムに依る浸食・支配を受け、熱狂的なキリスト教信仰はレコンキスタを実現、続く大航海時代に向かわせます。このエネルギーの源泉は「熱狂的なキリスト教信仰=ローマ教皇支配」であり、15世紀には宗教裁判(異端審問)の制度を作りイスラム教徒・ユダヤ教徒を迫害、イエズス会は宗教改革運動を弾圧します。西欧の近代には欠かせない「宗教改革」に取り残されたが故か、中世・近世を色濃く残す国となります。
誰がために鐘は鳴る
スペイン内戦の義勇軍は、第二次世界大戦前夜という「熱狂・熱病」の時代にスペインという「熱狂・熱病」の土地に咲いた花のようにも見えます。「狂い咲き」だったのでしょうか。

後に「誰がために鐘は鳴る」を書くアーネスト・ヘミングウェイが滞在し、「牛追い」で有名なバスク地方の首都:パンプローナ。ここに生まれたパブロ・デ・サラサーテ。彼の作った「ツィゴイネルワイゼン(ドイツ語で「ジプシーの旋律・曲」の意)」は彼の地の「熱狂・熱病・情念」そのものです。▼



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September 14, 2009

アサイラム ASYRUM RECORDS、 黄金の1970年代

odeonビートルズのレコードを初めて買った曲は 「Please Please Me」だったような気がします。当時は、APPLEではなく、まだODEON でした。その前後に(どちらが先であったかは忘れましたが)ビーチボーイズの「Surfin' capitolUSA」を買いましたが、彼らはCAPITOL 、どちらのレーベルも東芝レコードから販売されていました。少年であった私にはこの東芝レコードがあこがれの会社に映ったもので す。

ギターを楽しんでいますが、以前、その相方とその当時の話になり、彼は就職に際し て、東芝レコードかどうかは忘れましたが、レコード会社に会社訪問をしたそうです。人事担当者曰く、「勘違いしてもらっては困ります。ミュージシャンでは なく、レコードを売ってくれる営業マンを求めているのです…」。二人は関東と関西、育った環境も違うのですが、出会ったのは、音楽とは全く関係ない商社に 入社してからのことです。

もう一つ気に入ったレーベル、アサイラム(ASYLUM )がありました。Asylumlogo
まず、個人的にこの「アサイラム」という響きが好きで、「避難,亡命,保護、(亡命者な どの)保護施設、聖域、」の意、ますます好きになってしましました。

余談ですが、これに類似したレーベルでSHELTER  とShelterlogoいうのががありました。確か、レオン・ラッセルがそうだったと思うのですが…。

ロサンゼルスは1930年代 から映画産業の中心地でしたが、ビーチボーイズのCAPITOL Recordsも1942年の設立で音楽産業の中心地としても興隆してきましたが、やはりニューヨークにはかないませんでした。しかし、1970年代に入 ると、ニューヨークは景気の悪化、犯罪の増加、音楽スタジオの老朽化により、ミュージシャンには居心地の悪い街になってしまいました。一方、ロサンゼルス は冷戦下、地場の航空機産業が活況を呈し、流行・文化と繁栄の街を謳歌することになります。

ビートルズの 「Sgt. Pepper’s Lonely Hearts Club Band」は他のミュージシャンに多大な影響を与えますが、これを転機に、ロサンゼルスを拠点とするカントリーロック、「シンガー&ソングライター」の時代に入ります。

彼ら、ニューヨークのミュージシャン難民を受け入れたのがアサイラム(ASYLUM)でした。東海岸から多くのミュージ シャンをロサンゼルスに導くことになります。ジャクソン・ブラウン、JDサウザー、リンダ・ロンシュタット、ジョニー・ミッチェル、トム・ウェイツ、ニー ル・ヤング、クロスビー、スティルス、ナッシュ等そうそうたる面々です。

もう一人忘れてはならないのがグレン・ フライ。アサイラム(ASYLUM )は彼にドン・ヘンリー、バーニー・リードン、ランディ・マイズナーと共にイーグルス(Eagles)の結成を薦めるので す。

ロサンゼルスがアメリカ音楽産業の首都であったのは1970年代、この10年間だけでし た。

レコード会社への就職をあきらめた相方(あいかた)と二人でイーグルスのデビューヒット:「Take It Easy」をやります。いつもながら、お聞き苦しいところはどうぞご容赦ください。



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ISAO

映画・音楽・歴史、そして、自己流ながら、水彩画を描いています。思いついたことを、気の向いたままに、イサオなりに、深く掘り下げていきます。 ※お気づきの点、改善すべき点をどうぞお聞かせ下さい。

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