June 2009
June 27, 2009
マイケル・ジャクソンの死を惜しむ

唐突に話が変わりますが、…
歴史好きの大先輩が多くの世界遺産を訪ねて来ましたが、「エジプト、メソポタミア、インダス、黄河文明の4大文明発祥の地の今日は、過去の繁栄に比べると、あまりにも無残すぎる」という趣旨の感想を述べられています。私はそれらの世界遺産に行ったことはありませんが、彼の意見には大いにうなずかざるを得ません。その文明はそれを担った人間の子々孫々によって同じ地域で継承されることは希で、今日、その多くはただその土地の文化が残っているだけです。文明はより高度な文明に適した土地とその担い手である人間によって継承・発展していったということでしょう。
「文明と文化」をテーマとした読み物が多く見受けられます。確かに興味のあるテーマですが、もっぱら議論が活発なのは欧米や日本で、当の4大文明発祥の国々ではあまり議論されていないらしく、それがまた面白いところです。我々の生きている現代の文明といえば、教科書にある明治維新政府の「文明開化」の影響か?、イギリス産業革命以降の「ヨーロッパ・アメリカ文明(機械文明)」を指します。
言葉として、「文明」と「文化」があるのですからそれぞれの定義があるのでしょうが、どうも私にはわかりません。
その著『アメリカ素描』にある司馬遼太郎の言葉…
「文明はたれもが参加できる普遍的なもの・合理的なもの・機能的なものを指すのに対し、文化はむしろ不合理なものであり、特定の集団においてのみ通用する特殊なもので、他に及ぼしがたい。つまりは普遍的でない。」
納得できそうですが、私には、どうも、すとんとは腑に落ちない、どこかに引っかかる、つかえたところがあります。「文化」が特定の集団においてのみ通用する特殊なもので、他に及ぼしがたい場合は「文化」に留まりますが、その「文化」の中にも普遍性(のある価値)は生まれるものと思っております(それを即「文明」とは言いませんが…)。

マイケル・ジャクソンの死に接して、こんなとりとめのないことを思い出しました。
ご冥福をお祈りします。
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June 03, 2009
ラテン系? ルーマニア
「ラテンのリズムに乗って〜」とか「ラテン系のように〜」という表現は、「情熱的な」、「明るく、陽気な」…と、中南米の文化に対するイメージなのでしょうが、「ラテン系」とは本来、ラテン語を起源とする言語を母語とする人々、およびその文化を指します。
ローマの文字を「ローマ字」と呼びますが、その言語は「ローマ語」ではなく、「ラテン語」と呼ぶのは妙な感じですが、言語学という専門領域では、西ローマ帝国崩壊(476年)の頃以降、ラテン語の口語体を総称して「ロマンス諸語」と呼ばれ、イタリア語、フランス語、スペイン語、ポルトガル語、そしてルーマニア語がそれに含まれるそうです。
「ルーマニア語もラテン系?」と少々違和感を感じますが、
その名の通り、ルーマニア(Romania)は「ローマ人の土地」、正真正銘の「ラテン直系」ということになります。私の知っているルーマニアといえば、共産主義時代の独裁者:チャウシェスク(1989年処刑)、1976年モントリオールそして1980年モスクワオリンピック体操で金メダルを獲得したコマネチはなじみ深いのですが、その彼女はチャウシェスク共産主義政権を嫌ってアメリカへ亡命していまします。
遠くは15世紀、オスマントルコと戦った救国の英雄:ヴラド・ツェペシュ公、後に残酷非道な「串刺し公」と吸血鬼伝説と合体して「ドラキュラ」のモデルとなります。これらが、「情熱的で、明るく、陽気な」というラテン系に冠せられた形容詞とは全く相容れない「暗い」イメージをルーマニアに与えています。
ラテン系の多くがローマ・カトリックで、彼らは16世紀に始まる大航海時代、これに続く植民地獲得競争はこれらラテン系言語(ローマン諸語)をアフリカ、新大陸(南北アメリカ大陸)そして東南アジアへ拡げます。一方、ルーマニアの属する東ローマ帝国の国教は「東方正教会」でした。ラテン系の中でルーマニアが唯一「東方正教会」に属し、彼らが新世界につながる大西洋に面しているのと対照的に、ルーマニアはローマ帝国の東端、地理的にはアジア、文化的にはイスラム教と対峙、ルーマニア語だけが孤立することになります。
1453年、首都コンスタンティノープルが陥落、東ローマ帝国は滅亡、代わってオスマン帝国がバルカン半島を支配、ルーマニアはオスマン、ハンガリー両帝国による支配が第一次世界大戦の終わる1918年まで続くことになります。アジアとヨーロッパ、イスラム教とキリスト教、後には南進するロシア帝国による支配、ソ連による共産主義国家の成立と、異質な文明・イデオロギーを持つ帝国間の抗争に翻弄された歴史でした。これが「異質なラテン系」:ルーマニアのイメージの背景にある根本原因であるように思えます。
古代ローマ五賢帝の2人目、トラヤヌス(101年 - 106年)はこのバルカン半島北東のこの地に遠征、ローマ帝国の属州:ダキア(Dacia)とし、ローマ帝国最大版図を築きました。彼の名は現ルーマニア国歌にも登場するそうで、彼らは正真正銘の「ラテン直系」なのです。

次の皇帝:ハドリアヌス(117年 - 138年)の築いた「「ハドリアヌスの長城 Hadrian's Wall」」を訪ねることができましたが、もし機会があれば、ローマ帝国北東の防衛線の環(リム Rim)、同国を流れるドナウ河にも訪れてみたいものです。
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ローマの文字を「ローマ字」と呼びますが、その言語は「ローマ語」ではなく、「ラテン語」と呼ぶのは妙な感じですが、言語学という専門領域では、西ローマ帝国崩壊(476年)の頃以降、ラテン語の口語体を総称して「ロマンス諸語」と呼ばれ、イタリア語、フランス語、スペイン語、ポルトガル語、そしてルーマニア語がそれに含まれるそうです。
「ルーマニア語もラテン系?」と少々違和感を感じますが、


ラテン系の多くがローマ・カトリックで、彼らは16世紀に始まる大航海時代、これに続く植民地獲得競争はこれらラテン系言語(ローマン諸語)をアフリカ、新大陸(南北アメリカ大陸)そして東南アジアへ拡げます。一方、ルーマニアの属する東ローマ帝国の国教は「東方正教会」でした。ラテン系の中でルーマニアが唯一「東方正教会」に属し、彼らが新世界につながる大西洋に面しているのと対照的に、ルーマニアはローマ帝国の東端、地理的にはアジア、文化的にはイスラム教と対峙、ルーマニア語だけが孤立することになります。
1453年、首都コンスタンティノープルが陥落、東ローマ帝国は滅亡、代わってオスマン帝国がバルカン半島を支配、ルーマニアはオスマン、ハンガリー両帝国による支配が第一次世界大戦の終わる1918年まで続くことになります。アジアとヨーロッパ、イスラム教とキリスト教、後には南進するロシア帝国による支配、ソ連による共産主義国家の成立と、異質な文明・イデオロギーを持つ帝国間の抗争に翻弄された歴史でした。これが「異質なラテン系」:ルーマニアのイメージの背景にある根本原因であるように思えます。
古代ローマ五賢帝の2人目、トラヤヌス(101年 - 106年)はこのバルカン半島北東のこの地に遠征、ローマ帝国の属州:ダキア(Dacia)とし、ローマ帝国最大版図を築きました。彼の名は現ルーマニア国歌にも登場するそうで、彼らは正真正銘の「ラテン直系」なのです。

次の皇帝:ハドリアヌス(117年 - 138年)の築いた「「ハドリアヌスの長城 Hadrian's Wall」」を訪ねることができましたが、もし機会があれば、ローマ帝国北東の防衛線の環(リム Rim)、同国を流れるドナウ河にも訪れてみたいものです。
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express01 at 22:08|Permalink│Comments(0)│TrackBack(0)│
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